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福良 雀


Fukura Suzume
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2016年 あけましておめでとうございます。
2016年始の挨拶
あけましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
至らない私ですが、全力で頑張りますので、
今年も宜しくお願い致します。
皆様の新しい年が、幸多きものとなりますように!

2016年 元旦 福良 雀
 
|01:21| 日常 | comments(0) | - | posted by 福良 雀
Fukura Suzume
ポートフォリオ


★ポートフォリオ 【 portfolio 】
ポートフォリオとは、紙挟み、書類かばん、作品集、品揃え、資産構成、などの意味を持つ英単語。
原義は大判の紙挟みのことで、画家などが自分の過去の作品を挟んで作品集として使っていたことから、
現在では様々な分野で「自らの持つ様々な種類のものをひとまとめにして一覧できるようにしたもの」
というニュアンスの用語として用いられている。
一般の外来語としては、主に金融・投資分野において、様々な異なる種類の資産へ分散投資することや、
そのような異なる資産の種類や構成比率の組み合わせ、といった意味で用いられることが多い。
Web業界では、WebデザイナーやWeb制作会社が、過去に自らが手がけたWebサイトの一覧を
ポートフォリオ(サイト)と呼んでいる。
引用:IT用語辞典 e-Words(http://e-words.jp/)より

そろそろイラスト売込み用ファイルを作ろうと、
最近のファイル事情を調べる。

「ほほぅ、今はファイルとは呼ばず、ぽーとふぉりお、っちゅうのか。どれどれ。」

俄然興味が出て、関連本を何冊か図書館で借りて読む。
そして…その進化っぷりにビビる。

作品の収納方法は、バインダー派から始まり、ボックス派、
ハンドメイド派(手製本、和綴じ、蛇腹、お洒落な輪ゴムでとめたり、重箱風、レシート風…)などなど。
素材も、皮、和紙、布、段ボール、ラインストーンでデコなどなど。
製本を外注している人もいる(そんなお金無い(;∀;)。

要の作品の見せ方も、レイアウトやカテゴライズ、印刷が凝っていて、まるで一冊の雑誌のよう。
立体物もおかまいなしに平面にファイルしてたりして、ポートフォリオ自体が既にアート。

すぐに影響されてしまう私は、オサレなポートフォリオを目指し、
無謀にもその大海に乗り出すことになる。
…そして、気がつけば、ポートフォリオの海で溺れかけていた(笑)
ぐるぐる色んなアイデアを考えては、自分でダメ出し。
だんだん煮詰まっていく。

そして、溺れかけた私が掴んだ藁…、
ではなくて、出した結論。
それは、観てくれる人にとって見やすい、シンプルなファイルを作る、という浜辺に辿り着く(笑)

ポートフォリオは生き物。
色んな人に観てもらううちに、気付きがあり、変化し、成長して、
私独自のポートフォリオが出来ていくのだろう。
そんなことにも気付かないなんて、のめり込み易いバカは怖い(笑)

どんなポートフォリオになっていくのか。
それは、私自身の成長とリンクするものであって欲しい。

そして、どんな人に観てもらえるのか。どんな出会いがあるのか。
大変なこともありそうだけど、売込み苦手だけど(;∀;)、
それ以上に、とても楽しみなのです。
頑張ります!
|11:40| 仕事 | comments(0) | - | posted by 福良 雀
Fukura Suzume
『存在の重み』神谷美恵子 著
存在の重み 表紙 存在の重み 中

確か高校の課題図書だった気がします。
転居する度に、しっかと胸に、手放さない本達の中の一冊です。

今、頁を繰ると、
十代の私が引いた線や『』があちこちに有ります。
なんで、この言葉に線を引いたのだろう。
なんて考えて読み進めると、とても楽しい。
あの頃の私から、手紙をもらっているようです。

神谷美恵子氏は、精神科医としてハンセン病治療に関わり、
人の生き方について生涯をかけて考えた方。
憧れと尊敬とで、雲の上の存在、
雲の上の人過ぎて、影響を受けたなんていうのもはばかられる、
けれど、もの凄く優しく地上に降りて来てくれる人、
そんな感じがします。

この著書の内容はエッセイ集で、神谷氏のご両親と親交のあった新渡戸稲造氏についてや、
精神医学への導き手となった島崎敏樹との出会いなどが語られています。
新渡戸氏が述べた言葉に「Doing(行為業績)よりもBeing(人格形成)のほうが大切だ」
(神谷美恵子著 著作集6:「存在の重み」エッセイ集2 p18)
というものがあるそうです。
人として何を成したかよりも、そのあり様の方が大事だというのです。
当時の私は、その逆だと考えていたので、
自分の中で小さな革命が起きた思いがしました。

神谷氏は「先生が何も仰言らなくとも、先生がそこに存在するだけで、まわりにそいうもの、
いきいきしたもの、あたたかいものがあふれ出るような感じがいつもしたわけなのです。」
(神谷美恵子著 著作集6:「存在の重み」エッセイ集2 p16)
と、新渡戸稲造氏について語っています。

憧れましたね。そういう人になりたいなぁ、なんて大それたことを考えたりして。
若気の至りってやつですね。
今は、はっきり言えます。絶対無理っ!(笑)
でも、まあ頑張って生きていこうと思います。

話は変わり、先日5/10は母の日でしたね。
私がもう一冊持っている神谷氏の著書『こころの旅』に、
母と子の関係について書かれている一節に目が止まりました。
母と子の関係の最終形として、あくまで一つの理想として語られている一文です。

「下降をはじめた親の生活曲線と青年のそれはいわば交差して、やがて立場が逆転してくる。
ことに青年は母親に対して保護者のようにふるまいはじめるのが自然のなりゆきのようだ。
ここにゆとりとユーモアが介在すれば、母子はよき友として、
乳児期に始まった人格的な出会いを完成することができるかもしれない。」
(神谷美恵子著 著作集3:「こころの旅」 p115)

残念ながら、私は母が脳梗塞で倒れ、脳血管性認知症を患うまで、
上述のような関係は築けませんでした。
しかし、今また新たな母との関係性が生まれているような気がします。
将来の私への手紙として、この一文に線を引こうと思います。
|18:53| | comments(0) | - | posted by 福良 雀
Fukura Suzume
2015年度、新サイトOPEN!
spring 



 


 大島弓子『綿の国星』より

 サイトとは関係ないんですが、
 春を大島さんらしく表現した
  大好きなシーンなので。

 (*画像をクリックすると拡大画像が観られます。)

  
少し前に既にOPENしちゃってますけど(笑)
もしかして、もうご覧になってくださった方もいらっしゃるかと。

新しいサイトは下記になります。

『福良 雀 Fukura SuzumeIllustrations Gallery』
URL : http://fukura-suzume.com/

観て頂いた方は分かるかと思いますが、
構成は殆ど変わらず。
管理者のイラスト・ネーム変更に伴い、
サイト名、URLアドレスを変え、
扉絵、文字色などを地味にリニュしてみました。

ドキドキなのは、イラスト・ネームの変更。
でも、考えた結果、これしかないと。
『福良 雀』として、これからのイラストレーター人生を頑張っていくんだと、
決意致しました。

しばらくは、戸惑う方もいらっしゃるとは思いますが、
何卒、これからの福良 雀を生温く見守って頂ければ幸いです。
ちなみにFBなどのアカウントは、当分は、そのままです。

大好きな桜の開花とともに、新しいスタートが出来て嬉しい限り。
皆様においても、素敵な春となりますように!

よろしくお願い致します。

2015.3.29 福良 雀
 
|10:03| 創作活動 | comments(0) | - | posted by 福良 雀
Fukura Suzume
絶賛HPリニューアル中。
道路標識 工事中(小)

現在、新年度に向け、HPをリニューアルしています。
リニュといっても、構成はあまり変わらないのですが。

現在は、扉絵を絶賛制作中。
なかなか可愛くなりそうです。

そして、今回一番変わるのが、
イラストレーター・ネーム。
まあ、HPのタイトル自体が変わってしまうという…。
どのように移行すればいいのか思案中です。

「YOSHIMOTO CHIKA」は、元々は、
HPのサーバーとドメイン契約する際、
(仮)のつもりで付けた名前なんですねぇ。
愛着もわいてきてしまっているのですが、
替える時期がきたようです。
どんな名前になるかは、新年度のお楽しみ。

しかし、年度末、バタバタとしていて、
なかなか腰を落ち着けて作業することができません。
新年度に間に合うのだろうか(;・∀・)
頑張ります。
|12:47| 創作活動 | comments(0) | - | posted by
口づけするよ、ヨカナーン。/オーブリー・ビアズリー
サロメ表紙
パラフィン紙の岩波文庫(・∀・`)

サロメ
ワイルド作『サロメ』岩波文庫/目次扉

ヨカナーンとは、キリストに洗礼を授けたヨハネのこと。
タイトルは、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の一節。
ヨハネに魅入られたサロメが、その想いを拒絶されながらも叫ぶ台詞。
最後は父であるユダヤの王ヘロデに、「7枚のヴェールの踊り」を舞った褒美として
どうしても自分のものにならないヨハネの首を所望する。

サロメと言えば、ファム・ファタール、悪女のイメージだが、
それは、この戯曲の影響らしい。

モトネタは新約聖書。
ヨハネの首を求めたのはサロメの母であり、ヘロデ王の妻であるヘロディア。
彼女の前夫はヘロデ王の弟。
そのことをヨハネが批判したことで彼を恨み、
娘をつかって殺させた、ということらしい。
また、別の文献では、ヨハネの民衆への影響力を恐れたヘロデ王が殺したとも。

よって、サロメは無罪潔白なのだが、
「魅惑的な舞を踊る無垢な少女が、平然と聖人の首を求める。」
このモチーフは、19世紀末芸術にとって、非常に魅惑的なものだったのだろう。

絵画の世界では、ギュスターヴ・モローも多くのサロメ作品を残しているが、
私にとってのサロメは、もう、なんといってもオーブリー・ビアズリー。
1894年出版のオスカー・ワイルド『サロメ』英語版の挿絵を描いている。
何度観ても、その天才的な想像力と造形力に衝撃が走り、
自分の平凡さを嘆くことになる(笑)
まあ、当たり前か。
頑張ろうっと(´・∀・`)
|19:48| | comments(0) | - | posted by
2015 あけましておめでとうございます。
2015新年挨拶
旧年中はお世話になりました。
今年も昨年以上にはりきってまいりますので、
よろしくお願い申し上げます。

2015.1.1
|16:23| 日常 | comments(0) | - | posted by
2014年、お世話になりました。
2015年末挨拶

2014年、なんとか無事に過ごせました。
これも皆様のおかげです。
本当に本当に、ありがとうございました。

今年は新たなチャレンジもし、
世界が少し広がったような気がします。
来年も、私なりに攻めていきたいと思っていますので、
生温く見守って頂ければ幸いです。

皆様、良いお年を!

2014.12.31
|09:53| 日常 | comments(0) | - | posted by
Pippa's Song(ピパの歌)〜R・ブラウニング
ピッパが通る



タイトルは、イギリスのヴィクトリア朝を代表する詩人、
ロバート・ブラウニングの劇詩『Pippa Passes(ピパが通る)』の中の一節。

絹糸工場で働く少女ピパは、一年でたった一回の休日を迎える。

その喜びに満ち溢れた彼女が、町をそぞろ歩きながら歌うのが
Pippa's Song(ピパの歌)である。

「Pippa's Song」
The year's at the spring
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn:
God's in His heaven--
All's right with the world!

日本では、上田敏の訳が有名だ。



「春の朝」(はるのあした)
時は春、
日は朝(あした)、
朝は七時、
片岡(かたをか)に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

(上田敏訳詩集『海潮音』1905年10月刊所収)


私がこの詩を知ったのは、L・M・モンゴメリ「赤毛のアン」の中で。
養父の死により大学進学を断念せざるを得なくなったアンが、
物語の最後に呟くのだ。

…God's in His heaven--
All's right with the world!

神は天にあり、世はすべてよし

(村岡花子訳)

私は無宗教な人間だし、逆に神様がこの世をややこしくしている節もある、
などと考えている罰当たりだ。
だから、信仰心に根付いた、この詩の本当の意味は理解出来ていないのかもしれない。
でも、この詩が、特に上述の最後の二行が好きなのである。

神も仏も無いような世の中、一寸先は闇。
思い通りになることなんて、人生の中でいくつあるのだろう。
この先、大切な人と別れなきゃならないかも。
仕事を失うかも。事故に会うかも。
病気になるかもしれない。
今、地震が起きて死んでしまうかも。

でも、絶望にだけは殺されまい。
そう自分に誓う呪文だと思っている。

|19:09| | comments(0) | - | posted by
有元利夫 〜未完の完〜
私にとってのピエロ デラ フランチェスカ1
 有元利夫「私にとってのピエロ デラ フランチェスカ」より

有元利夫を知ったのは、いつだったか。
彼は1985年に肝臓がんにより、38歳の若さで亡くなっている。
知ったのは、その少し前、宮本輝氏の著作の装丁でだったと記憶する。
目にした人は多いだろう。

彼の絵を観たのは覚えている。衝撃的だったのだ。
亡くなった翌年に回顧展があり、姉と一緒に行った。

回顧展では、芸大買い取りになったという卒業制作、
「私にとってのピエロ デラ フランチェスカ」が展示されていた。
10点に及ぶ連作に、私は一気に魅了されてしまった。

その理由を言葉で表現するのは、なかなか難しい。
30年近くも前のことだし。
でも、その時のなんとも言えない感覚だけは覚えている。

「私にとってのピエロ デラ フランチェスカ」はとても不思議な連作で、
ストーリーがあるようで無い。
彼が敬愛するイタリアスネッサンス初期やフレスコ画の影響は感じられる。
しかし、ところどころ塗り残しのような箇所があったり、
描かれている人物の身体や事物が透けていたり。
手などは、殆ど描かれていない。
未完成なのではないか、という絵なのである。

ただ、観ているうちに、未完成だと思われる部分が、
完璧に思えてくる。
「これ以上はダメでしょう。」という絶妙なタイミングで
筆を止めていることに気づく。

未完成というか、欠落している美術品の魅力というものがある。
例えば、ミロのヴィーナスの腕が無いことが神秘性を高めるというようなこと。
アンバランスな危さは、意図的であるにせよ無いにせよ、
他者の介在を要求し、惹き付ける。

しかし、有元さんの作品は、それとも違う。
欠けた部分に他者を引っ張るのではなくて、
他者の欠落に呼応し、共有してくれる。
完全なものなど無い、この世の中で、
欠落を補うことを他者に強要しない。
描かない感受性、完全を避ける感覚に癒された。

どちらかというと観る者を突き放す。
全ての存在を有るものとして、そのまま受け入れる、
下手におもねったり、分かった振りをしない。
そして、最後に寄り添ってくれる。

たぶん、私が当時感じたものは、愛なんでしょう。大袈裟かな。

その後、有元さんの影響でピエロ デラ フランチェスカに興味を持ち、
数年後、イタリア、フィレンツェ郊外の町アレッツォやモンテアルキまで 
フランチェスカの絵を観にいくことになるのだが、その話はまた今度。

ただ、ピエロ デラ フランチェスカの絵を観て感じたことは、
当時の教会の壁画や祭壇画は、アートというよりも文盲の信者に対する
説明的な要素が多分にあったのだということ。
チマブーエやジョット、フランチェスカはそこにリアリズムという要素を入れ、
それが、人間讃歌のイタリアルネッサンスへと繋がっていく。
時代の間に生まれた、アートという顕示の無い絵の清々しさと素朴さ。
そして、その力強さと暖かさは、
欠落しつつ堂々と存在するのだという有元利夫の朗らかさに通ずるものがあった。
ああ、これが「有元利夫にとってのピエロ デラ フランチェスカ」なんだな。
と感じた。

回顧展の時、姉がしてくれた話を忘れることができない。
『こんな絵を描いてたら死んじゃうよ、と生前に言われてたんだよね。
そしたら本当に亡くなっちゃった。』
|18:35| アート | comments(0) | - | posted by
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